未来を、つくる側に立つ
AIエージェントやロボットが、人間の仕事を代替する。そうした議論を聞くたびに、私は問いの置き方を考えます。何が代替されるのかを見極めることは必要です。しかし、機械の能力から人間の未来を逆算するだけでは、私たちがどのように生きたいのかが、議論の外へ押し出されてしまいます。
私は、未来がどうなるかを予測して嘆くよりも、どうあるべきかを議論し、実現していきたい。これまでも、考えたことを多少なりとも形にしてきました。その経験があるからこそ、個別の仕組みをつくるだけでなく、それらが人間の生活や社会の全体に何をもたらすのかまで、引き受けていきたいと考えています。
私の立場は明確です。機械の進化は、人間が自分の人生をつくる余地を広げるために使いたい。そのために必要なのは、人間にしかできない仕事を探し続けることよりも、一人ひとりの違いが社会を豊かにし、その社会が次の違いを育む関係をつくることです。
独自性と共通性
一人ひとりの人間は、異なる身体を持ち、異なる環境で育ち、異なる経験を重ねています。同じ情報に触れても、何に注目し、どう解釈し、何を大切にするかは一致しません。その違いは、世界を見る視点の違いでもあります。
一方で、私たちは同じ人間として、感覚や概念を共有し、互いに理解し合うこともできます。違いだけでも、同じであることだけでも、人間の社会は説明できません。
本稿では、独自性を「個人や組織が持つ、再現不能な視点や価値創出の源泉」、共通性を「社会が合意し、共有可能な基盤」と定義します。私は、文明の進歩を、独自性が共通性へと安全に還元され続けるプロセスとして捉えています。
ここでいう還元は、違いを消して一つに揃えることではありません。誰かの固有の経験から生まれた知恵や発想が、他者にも使える知識、技術、制度へとつながることです。そして、その共通基盤が、次の独自性を育む余地を広げる。この往復が、文明を前へ進めます。
この考え方は、人の価値を社会への貢献量で測るものではありません。まだ誰にも理解されない考えや、他者に役立つ形にはならない営みも、個人の生の一部です。独自性には、共有する自由と、共有せずに保持する自由の両方が必要です。すべてを社会へ差し出さなければならないなら、還元は徴収になってしまいます。
違いを育み、受け止める基盤
独自性は、個人の内側だけで完結しません。発言する余地がなく、試す機会もなければ、発想は社会へ届く前に失われます。教育には、共通の知識を伝えるだけでなく、その知識では答えられない問いを持つ余地が必要です。経済には、すでに需要が証明されたものだけでなく、価値がまだ理解されていない試みにも、生き延びる余地が必要です。
誰かの発想を、既存のやり方と違うという理由だけで潰す社会は、進歩の源泉を失います。一方で、新しいという理由だけで未検証の考えを受け入れ、人々の生活を支える仕組みを壊すこともできません。ここには避けて通れない問題があります。「安全に還元する」とき、その安全を誰が決めるのでしょうか。
すでに権限を持つ人だけが決めるなら、共通性は既存の秩序を守るための別名になり得ます。多数が賛成したというだけでも、その変化の負担を少数者へ集中させてよい理由にはなりません。共通性は、全員の価値観を一致させることよりも、価値観が違うまま共に生きるための条件であるべきです。
だから私は、考えを持ち、表明する自由と、その考えを他者に適用する権限を分けたい。社会がまだ同意していない発想でも、存在する余地は守る。その発想を制度や技術として他者の生活へ入れるときには、影響を受ける人が事情を知り、異議を述べられるようにする。試す範囲を限り、結果から修正できるものは修正し、取り返しのつかない負担には、より厳しい理由を求める必要があります。
異議を認めることは、一人にすべてを止める権限を渡すことではありません。意見が一致しなくても、決定しなければならない場面はあります。そのときこそ、誰のどの利益を優先したのかを説明し、被害や排除が見つかれば、決めた側にも修正する責任が生じる。合意できなかった人が、決定後も生活と発言の足場を失わないことが重要です。
文明、国家、法律、経済、教育、技術は、この条件を相互につくっています。安全は現状を一切変えないことではなく、人が生活を失う恐怖だけで沈黙せず、変化に参加できる基盤です。その基盤が独自性を守り、独自性が基盤の欠陥を見つけ、更新する。私は、この循環を進歩と呼びたいのです。
機械は、何のためにあるのか
人間は、自らの危険や負担を減らし、生活を豊かにするために道具や機械をつくってきました。織機や機関車、家電は、人間の身体が引き受けていた仕事を変えました。パーソナルコンピュータは情報処理の力を個人へ広げ、インターネットは、その知識や成果を遠くの人々と共有する経路を広げました。
もちろん、機械の発展が、いつでも全員の安全や豊かさにつながったわけではありません。誰が所有し、誰が使え、利益と負担がどう配分されるかによって、結果は変わります。だからこそ、技術の能力と、その能力を何のために使うかを、一緒に考える必要があります。
AIも、この問いの延長にあります。情報を扱う仕事を機械へ任せられる範囲が広がるとき、重要なのは、機械がどれだけ多くの処理をこなすかだけではありません。その力によって、人間がどのような生活を送れるようになり、何を考え、何を試せるようになるかです。 生産性が上がっても、空いた時間が次の処理で埋め尽くされ、選べる生き方が狭まるなら、私が求める豊かさには届いていません。
代替の議論が見落とすもの
AIへ仕事を任せるとき、私たちは、その仕事が何によって成り立っているのかを見極める必要があります。手順や評価基準が共有された部分では、自動化を進めやすいでしょう。しかし、この区分を「人間は創造し、AIは処理する」という永続的な分業にしたいわけではありません。
仮にAIが、人間以上に新しい発想を生み、より正確に判断し、多くの仕事を担うようになったとします。そのとき、人間を中心に置く理由は失われるのでしょうか。人間の価値を機械に対する能力の優位へ預けるなら、機械が進歩するたびに、その価値は縮んでしまいます。私は、その前提を採りません。
ある仕事が得意であることは、その仕事を任せる理由にはなります。しかし、それだけで他者が何のために生きるかを決める権限まで得られるわけではありません。人間同士でも、より高い能力を持つ人に、他の人の人生を所有する権利が生じるわけではない。機械についても、能力の比較から人生の目的を決める権限は導けません。
人間を目的に置くとは、人間の判断がいつも正しいと主張することではありません。機械の提案によって、自分の誤りを知り、判断を変えることもあります。それでも、何を大切にするかを問い直す余地と、異なる生き方を選ぶ余地は、その人生を生きる人の側に残したい。人間の独自性を守る理由は、機械より珍しい答えを出せるからではなく、それが誰かの生そのものと結びついているからです。
将来のAIを、独自の経験や利害を持つ主体として扱うべきかは、別途向き合うべき問いです。ここでその可能性を否定する必要はありません。ただ、AIの能力が上がったという事実だけで、すでに生きている人々の生活や自己決定を、機械の性能向上の手段にしてよいことにはなりません。
文明の循環を、技術として実装する
私が目指しているのは、人間の独自性を生み、保持し、社会の共通基盤へと安全に還元する回路を、技術として実装することです。AIは、その循環を加速する媒介であるべきだと考えています。
たとえば、ある教師が、授業中は発言しない生徒が絵を使うと理解を表せることに気づき、授業を工夫したとします。これは説明のための仮定ですが、ここには一人の観察を他者の知恵へ変える難しさがあります。「絵を使うと成績が上がる」という規則だけを取り出せば、生徒の特徴や、教師との関係、その場で確かめたことが抜け落ちてしまいます。
AIは、本人たちが共有できると判断した範囲で、どのような条件で工夫が生まれ、何が変わり、何がまだ分からないかを整理する手助けができます。別の教師は、自分の教室に合うかを考え、小さく試し、合わなかった点も戻す。共有する対象は、生徒の私生活のすべてではなく、本人を守りながら他者の学びにつなげられる部分です。
もし、この工夫が一つの「最適な授業法」として全員へ強制されれば、共有は新しい独自性を潰す側へ回ります。反対に、元の条件や限界をたどれ、別の工夫を試し、共有された方法そのものを改められるなら、一人の発見は次の発見の足場になります。同じ技術でも、どちらの関係をつくるかによって、文明への作用は変わります。
この例は、技術だけで教育や経済の問題を解決できるという意味ではありません。試す時間も、失敗を引き受ける余裕もなければ、知識を届けるだけでは循環しない。AIの出力を増やす仕組みと、人間がその知識を使って行動できる条件は、一緒につくらなければなりません。
そのため、私が実装したい仕組みでは、成果と共に、それが生まれた条件、共有してよい範囲、適用できない場合、後から訂正する経路を残したい。実装が成功したかは、処理量だけでは測れません。これまで届かなかった人の工夫が他者に使われ、使われた結果が戻り、最初の方法を変えられるか。その往復までを、技術の成果として確かめたいのです。
共に実現する、という楽観
人間が先にあり、機械はその営みの中から生まれました。ただし、先に生まれたという歴史だけが、人間を大切にする根拠なのではありません。いま生きている一人ひとりに、機械の進歩のために費やされる資源としては扱えない人生がある。それを豊かにするために、私たちは技術を進めるのだと、私は考えています。
AIがAIを改善することも、この目的に寄与するなら進めればよい。人間がすべての工程に居続ける必要はありません。しかし、機械がより多くをできるようになるほど、人間が何を望むかを問う必要がなくなる、という結論にはしたくありません。実現できることが増えるほど、どの未来を選ぶかが重要になるからです。
私は、人がそれぞれの独自性を持ったまま結びつき、一人ではつくれなかったものが生まれることに、美しさを感じます。その結びつきは、全員が同じ答えを出すことではありません。互いに違うからこそ、自分だけでは見えなかったものが見え、自分だけでは進めなかった場所へ進める。機械には、その可能性を広げてほしいのです。
未来を楽観するとは、何もしなくても良くなると信じることではありません。危険を見つめ、異なる意見を受け止め、それでもより良い状態をつくれると考えて行動することです。独自性を育み、共通性へ還元し、その基盤からまた新しい独自性を生む。私は、機械の進化を、その循環を広げる力にしたい。未来を決められる側に留まらず、他者と共に、それをつくる側に立ちたいと思っています。